豊田英二著「決断」日経ビジネス文庫です。4532190193

目次
工場を学校として(トヨタ前史
小学校入学
押切工場時代
佐吉の思い出 ほか)
時代を翔る(結婚
トヨタ、日産、フォード提携
中国巡回サービス
上海再訪 ほか)
挑戦そして決断(乗用車生産始動
トラック第二系列
元町工場
中川社長誕生 ほか)

◆かんばんのルーツ
◎挙母工場ではメートル法の採用と同時に流れ作業の導入を決めた。
喜一郎はそれを実現するため、克明なパンフレットを作った。
彼の頭の中には工場を建設する前から、流れ作業が頭の中にあった。
刈谷工場では鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れ、それから
機械で削っていた。個々の部品についても、ピストンであれ、どんな部品
であれ、毎朝何個つくれという伝票が回ってくる。それが終ると次に穴を
開けろという指示がくる。
いわゆるロット生産をしていたが、これを全部流れ作業にするというのが
喜一郎の考えだ。すると品物のたまりはなくなり、倉庫も要らない。
ランニングストックが減って、余分な金が出なくなる。逆にいえば、買ったものが
金を払う前に売れてしまうわけで、この方式が定着すれば運転資金すら要らなくなる。

「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」

「間に合えばいい。余分につくるな」

◆倒産寸前
◎この時期、いろんな会社で騒動が発生した。うっかり人員整理に走ると、
組合は抵抗してストライキを打つので、おいそれとそれもできない。
トヨタも24年の秋は何とかやりくりして暮れまでもたせたが、賃金はひと月以上
遅れていた。暮れにはこのままでは年が越せない状況に陥り、とにかく金のありそうな
ところをかけずり回ったが、なかなか思うように集まらない。

◎とにかくこの時期は会社も私個人も貧乏だった。25年になると、正月早々から金繰りが
つかなくなり、倒産は時間の問題と、行き着くところまでいってしまった。
その時、日本銀行名古屋支店の高梨壮夫さん(元東京トヨペット会長)が、金融機関を
集めて、「トヨタを何とかしてやって欲しい」と頼んでくれた。これでトヨタは助かった。
ただし、人員整理と販売部門の分離という条件がついた。

◆人員整理
◎人員整理は25年の初めから準備を始め、4月に組合に申し入れた。そして労働争議は
6月に終結した。その直前、喜一郎は組合員を前に、
「わしは不本意だが、人員を整理しない限り、会社は生き残れない。
わしも責任をとって辞める」
と涙ながらに語り、トヨタを去った。

◆朝鮮特需
◎私が帰国した直後は、特需の代金がまだ入らず、金がなかったので社内では、
「トヨタはいま何をやるべきか」をディスカッションした。そこで決まったのは
合理化と輸送のコストダウンである。二つとも金がかからず知恵を出せばできる。
フォードでは物の移動に対するちょっとした工夫が、随分人手を節約できるのを
まのあたりに見ているので、まずこれから始めることにした。
これが「創意くふう」運動の始まりである。

◆創業者の死

◆モータリゼーション
◎カローラはモータリセーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラで
モータリセーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている。
トヨタはカローラのためにエンジンを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている。

◆社長就任
◎昭和42年10月30日に就任
「社長になってもこちらの気持ちは変わらないが、周りの人々が社長として扱うようになる。
副社長より社長のほうが偉いといった目で見る。それがみんなことらに跳ね返ってくる。
最初から大きい会社にサラリーマンとして入ったなら、違った感激があるのだろうが、
私の場合、豊田自働織機という親戚のしかも小さな会社に入った。
創業のころ大学出は喜一郎を除けば、私と斉藤尚一君の二人しかいない。
この二人が先頭に立って働かなければ、会社は立ち行かなくなる。ぼやぼやしている
わけにはいかなかった。そして気付いてみたら、トヨタも大会社になっており、
私もトップに立っていた。」

★豊田家の成り立ちが大変詳しく書かれており勉強になりました。
アマゾンの書評でもありましたが、ご自身の功績については、控え目なので、
他の方の本も読みます。次は、「豊田喜一郎」氏の本を買いました(笑)。

※アマゾンでは品切れになっています。申し訳ないです。
私は本屋さんの在庫で見つけました。

本日は、この辺で。

 

 

投稿者 himico-blog