柏崎吉一・須藤公明(著)『「駅すぱあと」風雲録―ヴァル研究所の開発者魂』日経BP企画です。
ISBN: 486130153X ; (2006/03)

目次
第1部 生みの親より育ての親―「駅すぱあと」開発物語
第2部 簡易言語に賭けた男たち―コンピューター新時代への挑戦
第3部 座談会・武器はナビゲーションバリュー―新天地をめざす経営戦略

◆白い眼で見られたプロジェクト

『・・ヴァル研究所としては、全社一丸となって協力する体制になったわけではなかった。
その研究開発費のほとんどはヴァル研究所の持ち出しであり、会社の売り上げには
貢献しないことに、役員などから不満の声もあがった。
・・開発チームは、いきなり商品化を狙うことは避け、まずは電車網情報の専門家である
「駅員」の知識を内包し、指定された駅間移動の所要時間を最短にする経路を、簡単な
操作で計算、提示してくれるエキスパートシステムを目指そう、と考えた。』

◆商品はできたが、売り場が・・・

『1988年2月、MS-DOS版の「首都圏電車網最短時間経路検索システム・駅すぱあと」
の発売にこぎつけた。・・・「自社ソフトを」という社長、島村の夢を叶えた、
MS-DOS向け首都圏版「駅すぱあと」の価格は、二万七千円だった。』

◆Windowsに振り回されて

◆自主ソフトを引っ提げ、企業へ

「自分達の手で作ったソフトウェアで、世の中に打って出ようと思う。」

「島村が起業しよと思った1970年代の前半は、まだベンチャー、ソフトハウスという
言葉自体が珍しい時期だった。だが、山崎は、島村の・・・」

◆仕事探しに奔走した高円寺南時代

「そこに、格好の仕事が舞い込んできた。大手コンピューターメーカーの下請けの下請け、
そのまた下請けという金額的にも実績としても多くを望めない仕事だったが、
それでもありがたく引き受けることにした。」

『仕事のあてもない上、ツールは未完成、しかもそれが売れるかどうかは分からない─。
ヴァル研究所には、三重苦の日々が続いた。だが、不思議と社内に悲壮感はなく、
むしろ、あっけらかんとしていた。そこを支配していたのは「どうせゼロからの
スタートだ。ここまで来たのだから、何が何でも思っていたことをやり遂げよう」
という開き直り、失うもののない強さだった。』

◆能力の切り売りはしたくない

『「面白いと思うんだけど、起業したばかりのベンチャー企業の製品は安心して使えない
からね」。これが、何度となく客先で聞かされた声だった。ソフトウエアの開発者として
は思いのたけを込めた自信作だっただけに、そういう反応に出会うのは辛く、悲しかった。』

「おい、家族も呼んで、みんなで餅つき大会をやらないか」

◆社長、マイコンキットに熱中

◆国産・統合ソフトの草分け「パピルス」誕生

『平野は8ビットパソコンを利用してマーケター向けのツール開発に熱を上げる島村を見て、
「ちゃんとビジネスになるかどうか、収支計画を出してほしい」と釘を刺した。
一人乗り気の島村は、受託開発で利益が上がると、すぐに8ビットパソコン用ソフトウェア
の開発に回してしまっていたからだ。・・』

『社内で白い眼でみられ、いかに孤立しても、島村は開発を止めなかった。ヴァル研究所には、
今でもあらゆる開発製品について、少なくとも五年間ぐらいは採算性をとやかく言わずに
やらせてみようという不文律にも似た社風がある』

★「駅すぱあと」のヴァル研究所という社名はもちろん知っていました。
けれども、「ナイル」という商品は知っていましたが、その関連は全く知りませんでした。

また、1970年代に早くも第一次ベンチャーブームがあったことも知りませんでした。

私も、ソフトメーカーという同じ業種に身を置く立場なので、
この業界の歴史を改めて学び、
聞きかじりの知識が、結びついたりもして、面白い本でした。

俺も、開発やってたよ、という方にお薦めです。

本日は、この辺で。

投稿者 himico-blog