松下幸之助著「松下幸之助 夢を育てる―私の履歴書」日経ビジネス人文庫です。4532190983
目次
父が米相場で失敗
小僧時代
電灯会社時代
創業時代
松下電器の運命をかける
昭和二年の恐慌
発展時代
労組の擁護運動で追放取りやめ
会社再建めざし米国視察
フィリップス社と提携
中川電機と日本ビクターを引き受ける
5カ年計画で売上4倍を
輸出増大を図る
会長に就任、経営見守る
甘えた「所得倍増論」に警鐘
40年不況で陣頭指揮に
“ダム経営”のもと集5日制へ
経営は芸術、賃金でも欧州抜く
創業50周年記念式典
過疎地信仰と万博「松下館」
会長退任、決意新たに
◆創業時代
◎ソケットの製造、四ヶ月かかって10円の売上、各方面でダメ。
◎扇風機の碍盤一千枚、差し引き80円の利益。
◆松下電器の運命をかける
◎「アタチン」(アタッチメント・プラグ)
─古電球の口金を応用したもので値段は市価の三割安、しかもモダンな型ときたから
これが当たった。
◎次に考案したのが二灯用差込プラグで、これは「アタチン」にも増して大好評だった。
東京にも製品が進出。
◎大正12年、松下電器の基礎となった自転車ランプの製造、販売にとりかかった。
─販売が一番難関だった。
『そこで私は「これは背水の陣をしくことだ、製品の真価を知ってもらうために小売り屋
に無料で配ろう」と決意した。まず3人の外交員をやとい、資本の続く限り、大阪中の
小売り屋に、二、三個のランプを置いて回り、うち一個はその際点火して
「30時間以上もちます。品物に信用が置けるようになったら売ってください。
その後安心ができたら代金を払ってください」と言って歩かせた。
全く松下電器の運命をかけた販売だった。』
◆会社再建を目指し米国視察
「初めてのアメリカ旅行は、世界に目をあけ世界の経済人に脱皮しようということを一応の目的
としていたが、旅行そのものは”一度アメリカを見てみよう”という気楽なものだった。
私はずっと五分刈りの頭でとおしてきたので、アメリカにもそのままの頭で行った。
しかし、アメリカではみんな髪を伸ばしている。それを見て五分刈りでは具合が悪いなと思い、
滞在中に髪を伸ばすことにして、キチッと分けて帰国したのだが、これは姿から見た一つの
変化だった。また、毎日一人で街を歩き、一日に必ず一回は映画を見た。
英語は全く分からないが、画面に変化があり、市民の生活がよく分かるので退屈しなかった。」
◆昭和28年9月22日、新政治経済研究会にて(観光大臣担当)
「戦後、経済自立の道として、工業立国、農業立国あるいは貿易立国などとやかましく叫ばれて、
多くの金が費やされました。しかし私は観光立国こそ、わが国の重要な施策として
最も力を入れるべきものと思います。
というのは、なんといっても観光立国によって生み出されてくる最大の利益は、日本が平和の国に
なるということにあるからです。ですから観光立国は何も金もうけのためだけでやるのではありません。
持てるものを他に与えるという博愛の精神からも、また国土の平和のためという崇高な理念からも、
堂々とこれを実行すべき唯一の立国方策なのです。」
◆昭和35年の経営方針発表会で”週5日制”を発表
◆昭和37年アメリカの『タイム』誌が、私と松下電器のことをカバーストーリーで取り上げた。
「アメリカ人たちは私のように一介の小僧から立身して成功した人間に非常に興味を持つし、
また高く評価するらしい」
◆ダム経営
「私の言う”ダム経営”とは、最初から、例えば一割なら一割の余裕設備をもっているということ
である。そうすれば、経済的に少々の変動があったり、需要の変化があったりしても、
それによって品物が足りなくなったり、値段が上がったりすることはない。
そのときは余分の設備を動かせば事足りる。その逆に、もし品物が余り過ぎるようだったら、
設備を少し余計に休ませればよい。これはあたかもダムに入れた水を必要に応じて徐々に
流しているようなものだ。資金、在庫、人材にも同様のダムが費用である。
このダム経営の意義をお互いに正しく認識してやっていくならば、健全で利潤の高い
経営の姿に移行することができる。そして、ダム経営によって社会に真の安定的繁栄が
もたらされるのである」。
★松下幸之助氏と言えば、ダム経営が有名です。
世間一般で言われているところと主旨が、やや違うような気もしたのですが、
いろんなところでお話しをされていたのかもしれません。
日本の名経営者・創業者シリーズもそろそろ、終わりでしょうか(笑)。
本日は、この辺で。